既にご存知の方もいるでしょうが、スタジオジブリ出版部は毎月10日に配布フリーペーパー「熱風」を発行しています。これは原則として全国にあるスタジオジブリ常設店でのみ取り扱っている雑誌で、昨年1月からスタートしました。
その昨年11月配布号より来月10日配布の最新号まで5カ月にわたって「特別連載 堀田善衞の世界」を掲載しました。この連載は、堀田氏の詩やエッセイを再録するコーナーで、最終回のみ短編小説「あるヴェトナム人」を収録しています。興味を持たれた方は、ぜひ、最終回だけでも手にとっていただけたら、と思っています。
その「あるヴェトナム人」ですが、再録にあたって何度も読み返しているうちに、いろいろ不思議なことが気になってきました。というわけで、今回は、この短編の奇妙な魅力について書いてみたいと思います。
「あるヴェトナム人」の舞台はパリ。世界中を旅行してパリの安宿にとまっている「男」が主人公です。「男」は、パリで入ったヴェトナム料理の店で、かつて第二次世界大戦中に「男」といきさつがあった、ヴェトナム人の男と出会います。ヴェトナム人の男は、その後も、政治に翻弄され、現在はパリでアルジェリアの独立運動に対するスパイのようなことをやって生き延びていると語ります。あらすじだけ追えば、「酷薄な歴史とそこに押しつぶされそうになりながら生きる個人を描いた堀田善衞らしい作品」と、いうことがいえそうです。
しかし、丁寧に読むとこの短編にはずいぶんと不思議なところが存在し、それゆえに、先に書いたような簡単なまとめだけでは、重要なものを落としたのではないかという感じが強く漂う短編です。
以下、その不思議な部分を箇条書きにしてみます。
1. 人名が基本的に明らかにされていません。主人公は「男」であり、再会したヴェトナム人の名前は思い出されないままです。そのほか玄関婆さん(コンシェルジュ)や、ホテルの前の出版社とその顧問である作家も名前は具体的に語られません。例外は、ほとんど普通名詞といってもいいバルザックの名前と、第二次世界大戦中に男が面倒をみたヴェトナム人のひとり(女性です)だけです。彼女は特に個別のエピソードはないにもかかわらず、ゴー・ティ・ヴィエト・ハンという名前がはっきり登場します。
2. 食べ物についての話題が小説の多くの部分を占めています。特に主人公が入ったベトナム料理店での料理の説明は、人名がほとんど出てこないことと比べても、かなり印象的なものになっています。また現在のヴェトナム料理とあたかもバランスをとるように、回想の中でも、戦時中の料理のエピソードが登場しています。どうしてここまで食事がでてくるのでしょうか。
3. よく考えると不思議な描写もあります。街の陰鬱が描写ですが「下町のせまい通りを歩いていると、妙にせむしや矮人が目に付く」とあります。後でももう一度、似たような描写がありますが、どうして障害者を点景として入れたのか不思議です。またラスト間近には、ヴェトナム人の彼が支払ったお札が「先刻のスープの中のザリガニにの死骸を思い出させた」と、あります。これも特に物語上の合理的な理由はなく、それ故に奇妙な印象の残る描写です。
4. 「外国で、人の顔を見て、思い出したりはしないほうがいい、ということくらいのことは、男も心得ていた」。本文の「思い出したり」には傍点が振られていますが、これはどういう意図なのか、ちょっと測りかねます。
この短編を読んでいると、これらの疑問が頭の中でうずまいて、非常に奇妙な感じを味合わされることになります。
堀田氏自身は、全集のあとがきで、この「あるベトナム人」を含む'60年代に発表された6つの短編について次のようにコメントしている。
「(これらの短編は)いずれも筆者の私小説、と筆者は考えている。作品の手法としては、時間と場所を自由に置換する、筆者がシュールレアリスムの手法と解しているものが助け手にきてくれた。(中略)筆者にとっても愛着の残るものであった」
シュールレアリスムの手法ゆえに、奇妙な描写が増えたのでしょうか? それも一つの理由かもしれません。でも私は個人的には、それだけではないような気もしています。「時間と場所を自由に置換」する前の現事実の何かを隠すことで、この短編を成立させようとしている ―― そんな作為の結果のような感じがどうしてもするのです。
もちろんこれはいくら考えても正解のでることではありません。単なる私の思い込みということも十分ありえます。でも、こうしてひたすら頭をひねることができるのも小説の魅力の一つだと思います。
というわけで「熱風」3月号をお楽しみに。
「時代と人間」通信目次
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