人間の性格というものは、やはり少年時代にその多くの部分を形成されるのだと思います。今回は、堀田氏がどのような環境で育ったのかをご紹介したいと思います。
年譜にもあります通り、堀田氏は1918年(大正7年)7月17日、富山県射水郡伏木町(現高岡市)に生まれました。父・堀田勝文、母・くにの三男で末っ子でした。1918年というと、第一次世界大戦が終わり、11月には富山で米騒動が起こった年にあたります。
堀田家の家業は、廻船問屋。江戸時代から伏木港を拠点とし、屋号は鶴屋でした。当時の伏木は、新潟、敦賀と並ぶ、日本海側の主要国際港でした。
父・勝文は、野口財閥の野口遵の一族で、慶応義塾大学を卒業した後、堀田家に婿に入ったそうです。なお野口遵とは、日本ではじめてカザーレ式アンモニア合成工場をつくった人物で、「日本窒素肥料」と朝鮮半島に進出した関連企業などにより、電気化学工業を中心とした野口財閥(日窒コンツェルンともいいます)を形作った人物です。
国際港である土地柄であり、かつ地元の名士であったからでしょう、勝文は、イギリスびいきだったようで、当時の堀田家では、丸善からロンドン・タイムズやイラストレーテッド・ロンドン・ニューズを定期購読していたといいます。当時としては、かなり珍しいことでした。
ところが、この家業がやがてうまくいかなくなります。日本の産業が発展し、ビジネスのスピードアップしていく中で、「廻船問屋」という存在が時代から取り残されていったのでしょう。堀田氏はエッセー「奇妙な一族の記録」(『堀田善衞全集 15』)の中で、仏間で毎晩、親族会議が開かれていた様子や、「タノシキ昔ガワスラリョカ」と流行歌を歌ったら父親から「暗い歌を歌うな」としかられた経験などを、回想しています。
伏木尋常小学校から地元の高岡中学に行くはずだった、堀田氏ですが、家の破産により、借金取りから逃れるため実家を出て、親戚の「堀田楽器店」へと下宿することになります。通学する学校も、県立第二中学校になりました。さらに、中学三年の時には、アメリカ人宣教師の家に移ります。
この中学時代に堀田氏が出会ったものが二つあります。それが「音楽」と「英語」です。
まず音楽ですが、堀田氏は、楽器店にいた時には、ピアノを習ったりして、クラシック音楽に親しんだそうです。宣教師宅に移ってからも音楽のレッスンは続き、かなり厳しく仕込まれました。一時は音楽家になることを夢見たときもあったそうですが、耳を患ったことから諦めることになりました。後に大学受験のために上京する時も、半月あまりのはやく上京して、オーケストラのコンサートに足を運ぶ予定をたてていたそうです。
そして「英語」ですが、この宣教師宅ではすべて英語で生活するきまりでした。ここで英語を徹底的に叩き込まれたそうです。ちなみに、その宣教師氏の息子は、金沢生まれのためしゃべれるのは金沢弁のみ。そこで堀田氏が、外国人である息子に、英語の手ほどきをするという、不思議なことになってしまったそうです。
こうして書いてみても、幼少時にロンドン・タイムズなどが身近にあった環境といい、宣教師宅で英語のみの生活といい、非常に国際的な空気が、子供時代の堀田氏を取り囲んでいたことがうかがわれます。特に英語は、日本語と違って、主語を明確にしなければ話すことができないなど、その発想がまったく違います。多感な時期に、日本語を客観的にとらえる機会を得たというのは、非常に大きな意味があるのではないでしょうか。こうした経験が、後の国際的な感覚の根っこになっているのだと思います。
また、「生家の没落」はそれ以上に大きな経験でした。
大学受験のために上京したおり、堀田氏はニ・ニ六事件に遭遇します。このときのことについて、
「生家が没落したという経験とも重なって、国家もまた永久不変ではなく、軍隊の反乱などによって崩壊することもあるのだという、中世の無常観ともつながる感覚を与えられた」
と、回想しています。
やがて堀田氏は、そんな生家を題材にした自伝的長編を構想し、資料を集めます。ところが1957年、自宅が火災になり、資料も焼失。この長編は結局、冒頭のみが短編「鶴のいた庭」(『歯車/至福千年 堀田善衞作品集』講談社文芸文庫)として発表されるにとどまります。
幼少時の記憶をだどるように始まるこの短編は、曽祖父の善右衛門を中心に、当時の家の様子を描き出し、善右衛門の老衰による死で締めくくられます。
果たして、もしこの長編が完成していたら、どのような筆致で生家の没落が描かれ、少年・堀田善衞の自我の確立はどのようにつづられたのか。
興味をそそられるところであります。
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