「ゲド戦記」の魔法 - 佐藤忠男
農民であり指導者である魔法使い像
ファンタジーばやりで魔法使いが活字上にスクリーン上に多数闊歩している昨日今日であるが、なかで魔法使いという存在に独自の地位を与えて、大人の読物としても高度の価値のあるものにした作品が、アメリカの作家ル=グウィンの「ゲド戦記」シリーズである。
この物語では魔法使いは、超自然の不思議な術を使う悪魔の手先のような禍々しい異物ではなくて、むしろ今日の技術者に近い人間だ。いやこの映画で敵役として大きな存在に脚色されているクモのように、従来の悪魔に近いイメージを持った魔法使いとして描かれる者も出てくる。しかし主人公の魔法使いハイタカはこの映画では、ときにはさっそうと馬に乗って駈けるが、ふだんは畑で馬をひいて土を起こし、種をまいている実直な農民でもある。彼は少年時代から厳しい訓練を受けてさまざまな魔法を使うことができるはずだが、その魔法は誰をも支配できるというような万能のものではないようだし、これ見よがしな術などは彼は決してひけらかしはしない。
では彼の魔法とはなんのためのものなのか。彼はこの世界のバランスが崩れつつあるらしいことに自分の知性と感覚の全てを集中して、さあどうしたらいいかと憂えているのである。思想家であり哲学者であり、まだ宗教が形成されていない古代における精神的価値の探求者である。決して単なる冒険家ではない。キャラクターとしても思慮深く重厚でしかも飾り気のない人物として描かれているが、声の出演でこの役に菅原文太を起用しているのが大成功だと思う。頼もしくて気取りのない、決して無敵ではないが決して挫けることもない、自分のことよりもつねに世界を見守ろうとしている指導者の理想像が描けている。この人物像が描けたことによって、この映画は成功したと言っていいほどである。
まず冒頭、海には暴風が荒れ狂っている。空には竜が舞っていて、ただならぬ殺気がみなぎっている。日本のアニメーションが築きあげてきた、気迫に満ちた荒々しい風物描写で、われわれはいきなり危機的状況の古代世界に運び込まれる。
絵として素晴らしいもののひとつは竜である。この古代世界のそのまた昔には、この地方では人間と竜とは共存していたという。そして王の側近の魔法使いによれば、
「ものを欲した人間は大地と海を選び、自由を欲した竜は風と火を選んだ。以来、人間と竜は交わることがなかった。その竜が姿を見せ且つ共食いなどとは……いよいよ黄昏が深まる兆しじゃろうか。」
ということだ。
世界がなぜかおかしくなっている。その危機の現れとして、容易に人間の世界には出てこないはずの竜が現れたというのだが、竜と竜との空中での激突ぶりが衝撃的であり、しかも美しい。空と雲と竜と、嵐の海を行く船と、それらの絵の動きと質感、量感の表現が充実していて、そのなかで絵として輝くのが竜である。このバランスを失った世界で不安のために自己を見失った王子アレンが、なぜか王を殺して逃走し、大賢人ハイタカに出会って共に旅をし、不安を超える道を見出すに至るのが映画の大筋である。そして竜は、さいごにはまた、必ずしも闘争的なだけではない姿に変って現れて全体をしめくくる。
世界の危機に直面する技術者の使命はなにか
この時代のこのアースシーと呼ばれる世界にはなにしろたくさんの魔法使いがいて、例えば船乗りのなかには風を都合よく吹かせて船を望み通りに進めるといった魔法を心得ている者がいる。これも魔法使いだが、現代なら彼らは技術者と呼ばれるだろう。彼らは人を驚かすために術を使っているのではなく、あくまでもそれが日常の業務なのである。
ただ、この世界には魔法使いにもピンからキリまであって、単に航海士などの役割を果たすだけの者から、世界全体のバランスが保たれているかどうかを省察して、もしバランスが崩れていると判断されればそれを正しい状態に回復すべく手をうつ、賢人、大賢人と呼ばれる者たちまでがいる。これが魔法使いの位ではトップに立つ。これには長い修行が必要で、大長篇の連作である原作では、ハイタカがいかにして大賢人となったかが書かれているが、こんどの映画では彼はすでに大賢人となって登場する。
古代日本の僧空海は、土木技術者としても一流で、日本各地に灌漑用の池の工事などをやって名を残している。同時にまた思想家として超一流で独特の宇宙論的な哲学をつくりあげている。これなど、正に古代の大賢人と呼ぶにふさわしい存在だと思われるのだが、これをもし当時の人の眼で観察して記述したら、そしてそれを少々風説やら伝聞やらで誇張したら、かなり「ゲド戦記」に近い世界が現れるのではなかろうか。
空海の宇宙論に世界のバランスという観点があったかどうかまでは私は知らないが、賢人と呼ばれる「ゲド戦記」の魔法使いのトップたちが、宇宙論的なバランスという観点からこの世界を考えていたということは示唆されるところの多い着眼点である。なぜなら、二十一世紀のいま、正に世界はバランスの危機に直面しているからである。人間と他の生物とのバランス、環境のバランス、資源と生産のバランス、などなど。そしてそれらの危機を起す力となったものこそは科学技術の発達なのである。人間は科学技術の発達こそは魔法などという妄想に支配された古い世界から人間を脱却させたものだと能天気にも思い込んできたが、いまや科学技術の発達こそが悪魔の魔法のように世界を滅亡の淵に立たせている。
今日、まるで魔法使いのように奇妙な先端技術を操ることのできる技術者たちは、その技術をただ金儲けや権力欲のために使うのでなく、世界の崩れたバランスの回復のためにこそ使うべきであり、その意味で魔法使いと呼ばれた古代の技術者たちが世界のバランスに思いをめぐらせる賢人をめざして修行をつんだというこの物語の設定にはたいへん興味深いものがある。技術者は政治家や資本家の手下であっていいのか。せめて古代の魔法使いたちのように世界の運命に対する憂いや使命感を持つべきだ。そう思う。
哲学的な原作に臆さず取り組んだアニメーション
彼らの魔法の根幹をなすものは、モノや人には通常用いられている呼び名の他に、本当の名前があり、この本当の名前を使って呪文をとなえることで人もモノも操作できるという考え方である。だからこの物語の中の登場人物は通名で呼び合うだけで、よほど相手を信頼するか、あるいはだまされるかしないかぎり、自分の本名を人には教えない。これはなにか、ただの言葉遊びのような発想から生れたアイディアのようでもあるが、同時になにか、深遠な哲学的あるいは社会科学的な思考から生れた思想のようでもある。社会とうまくやってゆくために気軽に使ってほしい名前と、本名と、二通りの名前があるというこの考え方は、呪文という霊気をはらんだ言葉があるという考え方と同じように非科学的で原始的に思える。しかし他方これは、世間に通用している自分とは別の、もうひとつの自分というものがあって、それは容易に他人には知らせない聖なるものだという考え方でもあるかもしれない。だとするとこれは、個の自覚とか、個の尊厳とか、さらには人権という思想にまで至る思想の芽のようなものであったかもしれない。逆に言えば、人やモノの本質的条件を知ることでそれらを操作できるものにしていった科学や技術はそもそも魔法のようなものであったということにもなるかもしれない。
ル=グウィンの「ゲド戦記」は、このように興味深い思索性に満ちている。それだけに映画化は容易なことではない。哲学的な問答が多く、アクションはあまり多くはない。この映画化では、原作の第三作『さいはての島へ』(岩波書店刊)を中心にして、とくにそのなかの、放浪の王子アレンと、邪悪な魔法使いのクモのエピソードを拡大して、アクションの豊富なストーリーを新たにつくりあげている。あくまでも死を拒もうとして悪あがきをつづける老いた魔法使いのクモと、そのクモの言葉に引きずられがちな若いアレンに対して、ハイタカは毅然として言う。
「不死は生を失う事だ。死を拒絶する事は生を拒絶する事なのだぞ! 聞きなさいアレン、この世に永遠に生き続けるものなどありはしないのだ。自分がいつか死ぬ事を知っていると言う事は、我々が天から授かった素晴らしいおくりものなのだよ。」
まあ、なんという凄いセリフだろう。こういう崇高なまでのセリフに拮抗できる映像をつくるなんて容易なことではないが、その容易でない仕事にこのアニメーションのスタッフは臆することなく取り組んでいる。
クライマックスはクモに捕えられて殺されようとしているハイタカをアレンが救う壮大なアクションである。簡単に崩れる巨大建造物を駆けめぐりながらの息もつがせぬ格闘だが、波を打つように揺れながら崩れてゆく建造物の屋上を這うように走って危機を脱するあたりは、おきまりのルーティンの趣向ながら、やっぱり手に汗を握らせる。
テルーという少女とテナーというおばさんの存在も、大賢人ハイタカといい家族のような組み合わせになるあたりが良かった。魔法使いをあくまで健気で勇気と良識のある市民として描こうとする宮崎吾朗監督の見識がそこらに結集しているように思う。
※本稿は、徳間書店より発売の『スタジオジブリ絵コンテ全集15 ゲド戦記』の月報に、佐藤忠男さんがご寄稿下さったものです。
佐藤忠男(さとう・ただお)
1930年、新潟市生まれ。1950年から『映画評論』『キネマ旬報』などに映画論を発表。以後、映画・演劇・文学などの分野で数々の著作を発表している。
主な著書は『わが映画批評の五十年』(平凡社)、『誇りと偏見│私の道徳学習ノート』(ポプラ社)、『長谷川伸論│義理人情とは何か』(岩波現代文庫)、『日本映画史』(岩波書店)、『映画の中の東京』(平凡社)など。現在、日本映画学校校長。