雑誌『インビテーション』4月号採録「鈴木プロデューサー ゲド戦記を語る(1)」
スタジオジブリには、日々多くのお客さまが訪れます。
新聞・雑誌の記者の方々や、テレビ局、広告代理店、映画の製作委員会の皆さん......。鈴木プロデューサーのモットーは、映画に関係してくださる方々と、徹底的に付き合うこと。
「インビテーション」(ぴあ刊)の編集者・浅岡さんと、ライター・金澤さんもそのひとり。
まさに、公私共に深く付き合う彼らの仕事は、鈴木プロデューサー初めての本『映画道楽』に結実しました。
本インタビューは、浅岡さんと金澤さんが担当されている、ぴあの雑誌『インビテーション』4月号に掲載されたものの採録版。おふたりのご厚意で、ジブリHPに採録させて頂く運びとなりました。
気心の知れた仲ならではの、ざっくばらんな映画『ゲド戦記』制作の経緯。
世界一早い『ゲド戦記』インタビュー(完全版)とあわせて、ぜひご覧下さい。
宮崎アニメの源流をなす原作に挑む!
今夏公開されるスタジオジブリの新作アニメーション『ゲド戦記』。
『指輪物語』『ナルニア国物語』と並んで三大ファンタジー小説に数えられるアーシュラ・K・ル=グウィンの原作を、ジブリがいかにアニメーション化するのか? 鈴木プロデューサーに作品の立ち上げから監督決定の経緯を語ってもらった。
長年の映画化の模索と研究チームの結成
『ゲド戦記』の映画化。それは鈴木敏夫プロデューサーにとって、ある意味、夢の具現といえるかもしれない。彼と宮崎駿は、最初のコンビ作である『風の谷のナウシカ』以前に、その映画化を模索したことがあるからだ。
1981~82年のことだったと思うんです。宮さん(宮崎駿)は『ゲド戦記』の原作に心酔していました。だから、最初に映画を作ろうとしたとき"『ゲド戦記』がいいね"という話になったんです。それで、日本語版原作の版元である岩波書店に、映画化権の許諾を打診したんですよ。
しばらくして返事が来て"原作者からOKが出ない"と。こういう言い方をするといけないけれど、それで仕方なく、代わりに『風の谷のナウシカ』をやることになったんです(笑)。僕と宮崎駿は、もともと『ゲド戦記』を映画にしてみたかったんですよ。
10年ほど前にも、鈴木敏夫は再度映画化を思い立ったことがあるとか。
最初のときにやりたかったのは、原作の第1巻から順番に映画化することでした。でも、原作を読み直したら第3巻が面白いと思ったんです。なぜかといったら、その内容に時代が近づいてきたからなんです。当時、そういったことを高畑(勲)さんと話した記憶がありますね。
このときにも、映画化権の許諾は下りずに断念。
もはや『ゲド戦記』の映画化は無理かと思われた4年前の秋、今度は原作の日本語訳を担当した清水真砂子からジブリに連絡があった。
清水さんから『ゲド戦記』を映画化してみないかとご提案をいただいたんですよ。何でも原作者のアーシュラ・K・ル=グウィンさんが宮崎駿の映画を観ていて「もし映像化するとしたら、この人をおいて他にいないだろう。」とおっしゃったと。
そのことを宮さんに伝えたら、彼が戸惑いました。
「これが20年前なら、すぐにでも飛びついたのに......。」と。
ちょうど『ハウルの動く城』を作っている最中でした。
一方、僕も嬉しかったけれど、正直"どうしよう"思った部分もあったんです。というのも『風の谷のナウシカ』以降、宮崎作品に出てくる物語の要素やアイデアなどは『ゲド戦記』にインスパイアされたものも多いんです。やるにしても単純に原作を映画化すればいいというものではないだろうと。そこでまず、映画化の可能性を探るために、研究チームを作りました。最初のメンバーは僕と若いアニメーター、プロデューサーの石井朋彦、それと宮崎吾朗君でした。
宮崎吾朗とは宮崎駿の長男であり、当時『三鷹の森ジブリ美術館』の館長を務めていた人物である。
美術館ではジブリ作品の関連展示もしますし、ジブリの映画も無関係ではいられない。最初はそのくらいの気持ちで吾朗君に入ってもらったんです。それで研究会では、まず原作のどの部分をやるかを検討しました。
僕は10年前に第3巻がいいと思ったけれども、具体的な映像化を前提に考えると、もう一度原作を読み直す必要がある。それで分かったことは第1巻の場合だと、通常は主人公ゲドが魔法を手に入れたら、それを武器に誰かと闘うでしょう。でも、ここでは闘う相手が内なる自分自身なんです。そのことによってゲドは成長する。つまり『自分探し』のドラマですね。これは原作が書かれた1968年当時には新鮮だったけれども、その後ル=グウィンさんの考え方に影響された『自分探し』の作品が、小説や映画で数多く作られた。そういう意味では新鮮味がなくなってきたんです。同時にゲドは自分のことばかり考えていて、内面から成長を遂げるという展開は、お客さんが共感しにくいと思いました。第2巻はゲドが壊れた腕輪を一つにして、争いの絶えない世界に平和をもたらすという面白いテーマなんですが、舞台が地下迷宮で真っ暗ですから、映像化はしにくい。ということで、やはり第3巻をメインに考えていくことになったんです。
こうして内容の方向性が決定していく中で、鈴木敏夫は原作者アーシュラ・K・ル=グウィンとメールのやり取りを始めていった。
ル=グウィンさんは宮崎駿に映画化してほしいという依頼でしたから、こちらの現状を説明する必要があった。そこで本人と直に会話ができるメールが役に立ちました。僕はル=グウィンさんに、正直に状況を伝えたんです。
「映画化のお話を頂いてビックリしています。しかし宮崎駿は新作を作っていて、すぐ『ゲド戦記』には取り掛かれない。当面、その映画化の可能性を研究させてください。」と。
そこから始まってル=グウィンさんとは、何度もメールの交換をしました。驚いたのは、後から聞くとル=グウィンさんは70歳を越えているんですが、僕がメールを出すとすぐに返事が来たことです。こちらは日本語で文章を考えて、それを英語に訳してもらってからメールを送るでしょう。すぐに返事が来ても、それをまた日本語にしてもらってから対応しなくてはいけない。どうしてもこちらからの送信は何時間か遅れるんです。これには参りましたね(笑)。
宮崎吾朗監督の抜擢 そして宮崎駿の反対
研究チームはやがて、宮崎吾朗が中心になっていった。
その過程で、鈴木敏夫は今回の作品の監督に宮崎吾朗を据える腹積もりを固めていった。
宮さんに、あるとき「これは、吾朗君中心にやらざるを得ない。」と言ったんです。
彼は「どういう意味だ。それは吾朗が監督ということか? 鈴木さんはどうかしている。吾朗がアドバイザーとして加わることはあると思っていた。しかし、吾朗が中心になってやるなんていうことはありえない。」と言いました。つまり、完全に吾朗君の監督には反対なんですよ。
そこで僕は、宮崎駿を説得するための画が必要だと感じたんです。これまでにもジブリの映画は、いつも1枚のイメージ画からスタートしていましたから。
それで吾朗君を呼んで「画を描いてくれ。」と頼んだんです。
その時点ではまだ、何巻を映画化するかの決定はしていなかったんですが、彼の態度はハッキリしていました。
「何巻をやりますか? 僕はプロデューサーの決定に従います。」と。
彼自身、原作を高校時代に読んで面白いと思っていた。ですから自分なりの思い入れはあるはずなんですが、何の躊躇もなかったですね。僕が「やるなら3巻だろう。」と答えたら、非常に職人的に"引き受けます"と言いました。
それで彼にイメージ画を発注し、同時に美術やアニメーターのチームを作って準備を始めました。内容は3巻を柱にして、丹羽圭子さんにお願いしてシナリオを進めてもらったんです。
とにかく宮崎駿の反対が大きかった。ですから、僕たちがこういうものをやりたいということを何らかの形で作る必要があったんです。それがシナリオだけになるのか、絵コンテの段階になるのか分からないけれども、そこまでやらせてほしいと。このことを宮さんにお願いしたんです。
宮崎吾朗によるイメージ画、スタッフたちによる作品の世界観作り、丹羽圭子のシナリオ。これらが並行する形で進む中、最も苦しんだのがキャラクター作りだった。
改めて原作を読むと、物語には白人がほとんど出てこない。赤褐色か黒人の有色人種なんです。さらに彼らには髭がない。これには困りました。
そういうことも含めて、キャラクター作りには悪戦苦闘しました。ヒロインの少女テルーには、僕が好きなギリシャ映画『春のめざめ』に出てくるクレオパトラ・ロータのイメージをはめ込んでみたり、いろいろやったんですが、うまくいかない。
そうしているうちに、時間的にも切羽詰った状態になってきた。そこで僕は吾朗君を呼んで、注文を出しました。
「キャラクターは、お父さんのキャラクターでいこうか?」と。
今の時代、キャラクターを作ることは凄く難しいんです。
でも『ハウルの動く城』で改めて宮崎駿に驚いたのは、あの作品に出てくるヒロインのソフィー。これが見た目で何を考えているのか、何をしでかしそうなのかが分かるでしょう。それは大変なことなんです。今のアニメーションで、人物が何を考えているのかが見た目で分かる作品は本当に少ないですから。宮崎作品にはキャラクターの強さがあるんです。
だから吾朗君には、お父さんのキャラクターを使おうと言いました。その上で彼には「名シーンを10枚描いてくれ。」と発注し直したんですが、なかなかうまくいかない。彼が最初に描いてきた何枚かのイメージ画を、僕は面白いと思わなかったんですよ。
でもその中にあった竜の顔はいいと思った。
「竜の顔はこれでいい。この顔で全身を描いてみてくれ。それと主人公の少年アレンが対峙する画を描いてくれないか。」と。
話したらすぐに、そこで吾朗君が竜と少年の絵を描き始めたんです。これが構図として横位置の画だった。僕は「これを縦の構図にしてくれないか。」と言いました。そうすると、対峙する竜と少年を真横から見るのではなく、左右対称がズレたカメラ・アングルになる。ちょっと少年の肩越しに竜を見る感じになるんです。それが今ポスターになっている絵なんですよ。
この絵が完成して、僕はある程度いけるという手応えを感じました。
父と子が描いた二つのイメージ画
なぜ鈴木敏夫は、竜と少年とが対峙する画を描かせたのか。
例えば『もののけ姫』におけるヒロインのサンと山犬のモロ、あるいは『となりのトトロ』のメイとトトロ。実は、このように小さな人間と巨大な生き物とが対峙する構図は、これまで宮崎駿が好んで描いてきた画なのである。
そのときもまだ吾朗君の監督に反対していた宮さんに、その画を見せたんです。
そうしたら、彼は黙ってしまいました。つまり、宮崎駿は横位置の構図で、こういう画を描いたことはあるけれども、縦位置で描いたことがなかったんですね。見た目はそっくりだけれども、アングルが違う。これは効果があると僕は思って、吾朗君に描かせたんです。確かに絵を見て彼は唸りましたね。でもOKとは言わなかった。
その後ある日、宮さんが僕のところにやって来て「どうしても吾朗でやるのか?」と聞くので「はい。」と答えたら、宮崎家で家族会議を開いたそうですね。そこで吾朗君の覚悟の強さを知った彼は、やっと息子の監督ということをのんだというんです。
そうと決まったら、僕もただでは起きない人間ですから、「はなむけに一枚、絵を描いてくださいよ。」と宮さんにお願いしました(笑)。それで描いてもらったのが、作品の前半でアレンとゲドが活躍するホート・タウンという町の原型になったイメージ画です。
ですからこの作品は、吾朗君が描いた竜とアレンが対峙する画と、宮崎駿が描いたホート・タウンの画。この2枚から本当の意味で始まったんです。
宮崎駿と約束したシナリオを見せるという宿題は残されたが、監督に関しては決定した。
しかし、大きな問題が未解決のままだった。監督として宮崎駿を希望していた原作者に、監督が宮崎吾朗に代わったことを認めさせなくてはいけなかったのだ。
僕は去年の6月、ル=グウィンさんに事情を説明するため、吾朗君を連れて渡米するつもりでした。でも、それを知った宮さんは烈火のごとく怒ったんです。
「吾朗がやると決めたじゃないか。それなら監督はスタジオを離れて原作者に会いにいくなんて冗談じゃない。監督というのは少しでも時間があったら、1枚でも多くの画を描くべきだ。原作者と交渉するのはプロデューサーの仕事だろう!」と。
それを聞いて、僕もなるほどと思いました。だから宮さんに謝ったんです。
「すいませんでした。吾朗君をアメリカには行かせません。その代わりといっては何ですが、宮さん、一緒に行ってくれませんか?」と。
彼は「何で俺が!?」と驚いていましたけれどね。僕は「いいじゃないですか。原作のファンなんですから。」って(笑)。
原作への思いを吐露して説得に当たった宮崎駿
こうして鈴木敏夫と宮崎駿は、アメリカに住む原作者を訪問した。
彼らの会見は午前中に行われたそうだが、当日の朝、宮崎駿は「鈴木さん、本来ならあなたが話すところだろうけれども、今日は全部俺に話をさせてくれ。」と言ってきたという。
ル=グウィンさんには、事前に2枚のイメージ画を送っておきました。それを我々が行くまで開封しないでほしいとお願いして。それと、この日、宮崎駿が一緒に行くとは伝えていなかったんです。
ル=グウィンさんの家に到着して、まず印象的だったのは"イラク戦争で今日死んだアメリカ兵は○○人"と窓ガラスに貼ってあったことですね。それだけで彼女がどういう人物か分かった気がしました。
僕と宮さんが家に入っていったら、一瞬、驚きましてね。
「ジブリの鈴木です。宮崎吾朗を紹介します。」と挨拶したら、ル=グウィンさんは「ずいぶんお年を召した吾朗さんですね。」とユーモアで返してくれました(笑)。
そうやって会見が始まったんですが、その冒頭で、宮さんは「自分はこの原作を枕元から片時も離したことはない。自分が困ったときや悩んだとき、何度ひもといて読み直したか分からない。それぐらい読み込んで、あるときには助けられ、あるときには救われた。だから、この本に関して、自分はすべてを知り尽くしている。この作品を映像化するとしたら、世界中で自分をおいて他にはいない。」そう言い切りました。
さらに、「あなたは僕の映画を観てくれたそうですが、『風の谷のナウシカ』に始まって『ハウルの動く城』に至るまで、僕はいろんな作品を作ってきたけれども、すべて『ゲド戦記』の影響を受けています。」と告白したんです。
作家が作品に注ぎ込んだアイデアや内容を、自分のオリジナルではなく他者からの影響だと素直に認めることは稀だろう。しかし、宮崎駿はこのとき作家である以上に原作の1ファンとして話していたのではないか。
そして宮さんは「今回のありがたいお話ですが、これが20年前ならすぐに自分がやりたかった。しかし残念ながら、自分は年をとりすぎている。どうしようかと困っていた時期に、自分の息子とスタッフがやると言い出した。彼らならこの本から新しい魅力を発見して、いい映画を作ってくれるかもしれない。スクリプトに関しては自分が責任を持ちますから、映像化を許諾してもらえませんか?」と、非常に感動的に言いました。
それから、イメージ画を一緒に見て「この竜と少年の絵は、原作の表現と比べるとおかしいですよね?」とか、宮さんがル=グウィンさんに言ったりした一幕もあったんですが(笑)、何とかル=グウィンさんは宮崎吾朗監督で映画を作ることを了承してくれたんです。
宮崎駿のファンとして作家として、さらには父親としての真摯な説得によって、映画『ゲド戦記』はここで正式に宮崎吾朗の第1回監督作品として動き出すことになった。
日本に帰ってきてから、宮さんは「あんなこと、言わなきゃよかった。」なんて言いだしました。
それはスクリプトのことなんです。こちらとしてもシナリオを宮崎駿に読ませる約束をしていたし、彼も原作者の前で責任を持つと言った。でも、息子が作る作品といっても、他の監督が作る映画に変わりはないでしょう。自分だったらこうするという思いは絶対に出てくる。作家というのは大なり小なり、他人が作るものには納得できない人が多いんです。
そのことでは悩んでいましたね。結局、シナリオのチェックはしなかったんです。
果たして、宮崎駿の思いを受け取りながら、宮崎吾朗監督はどのようなジブリ映画を作り出そうとしているのか。
次号では、鈴木プロデューサーから見た監督・宮崎吾朗の魅力や現代に向けた作品の内容、声の出演者に対する発言などよって、さらに映画『ゲド戦記』の世界に迫ってみたい。
取材構成:金澤誠