「話の話」8--9頁 | |
「話の話」42--43頁 | |
「話の話」84--85頁 (C)Yury Norshteyn/Francheska Yarbusova/Igorj Skidan=Bosin | |
はじめに | |
ぼくがノルシュテインの作品をはじめてみたのは、「セロ弾きのゴーシュ」の上映会に併映された「霧につつまれたハリネズミ」(註1)だった。すばらしかった。完璧な映像詩だった。もちろん「ハリネズミ」を「詩」であるというだけでは足りない。特に「ハリネズミ体験」とでもよぶべきものをしたあとでは。 霧にとらえられたハリネズミのように、観客はいっぺんにこの作品にとらえられる。そしてハリネズミとともに井戸をのぞいてコダマに耳をかたむけ、フクロウにあとをつけられ、霧のなかをさまよい、馬を見、まぼろしの象を見、大木にぶつかり、おびえ、忘れた荷物をさがしにもどり、不安に立ちつくし、突然の犬の出現におどろき、とどけてくれた荷物にほっと胸をなでおろす。ハリネズミとともにこの親切な犬にありがとうを言おうと思ったときにはもう犬は姿を消している。紅一点の可愛い舌ハアハアと鼻クシュンの印象だけを残して。ぼくはたしかにハリネズミとともに霧のなかをさまよったのだ。そしてはじめからおしまいまでその暖かいユーモアに心をひらかれながら、しかもなお、まるで現実の体験だったとしかおもえないほどハリネズミと霧をさまよった肉体的感覚的記憶がぼくの身のうちに生きている。子供時代ならば不思議はない。しかしぼくはもう五十に近いオッサンだ。アニメーションでこんなに同化出来たのはいったい何年ぶりだったろう。それ以来ぼくはすっかりノルシュテインのファンになってしまった。 「あおさぎと鶴」「霧につつまれたハリネズミ」「話の話」などノルシュテインの作品はすべて、いわば夢のフィルターをとおして世界をみているような気分にぼくらを誘いこむ魔力をもっている。暗緑色と褐色を基調にした繊細(せんさい)で魅惑的な映像が白々とした空間にうかびあがる様(さま)は、その奇妙に失速度のあるテンポとあいまって、たとえようもなく美しく悲しく、まるで夢の大海原の水に浸(ひた)されているような、夢の海のなかをくぐっていくような、じつに玄妙不可思議な世界にぼくらを連れていってくれる。そこではものみなしずまりかえり、原初の寂寥(せきりょう)感がただよう。まざまざと実感させてはくれるが、手で触れようとするとそのまますりぬけてしまいそうな、だからこそかえって心にしみとおる忘れがたい記憶だけをのこして。ここではユーモアでさえもがいわば夢の水に浸されたうえですがたをあらわすかのようだ。 「話の話」はしかし、そう簡単にぼくをよせつけてはくれなかった。はじめてみたとき、これはすごい作品に出会ったとおもった。主人公の犬のような動物はそのキャラクター、その表情、そのしぐさ、なにからなにまでまったく魅力にあふれていた。しかし作品が理解できたかといわれれば、ごく部分的にしかわからなかったというしかない。不思議な、魅惑的でこわい夢をまざまざとみたような気分を味わった。ぼくはみている間じゅう、「ハリネズミ」の作家から期待してよいはずの「物語」をみつけだそうと懸命だった。疲れきってしまったが「物語」はうまく綴(つづ)りあわすことが出来なかった。ところがしばらくして二度目をみる機会があって、上映がはじまっていくらもたたないうちに、ハラッと眼からウロコが落ちたとでもいうのか、「これは物語ではなくて詩なんだ」と感じたとたんじつにすんなりと「話の話」の世界に入っていけたのである。もちろん理解できないことだらけだったが。 この「解説」は、ちょうど和歌や俳句の「解釈と鑑賞」というたぐいの書物と同じように、もっぱら作品内容を散文的に敷衍(ふえん)することに重点を置いている。このような形式の解説が映画に対してなされることには疑問もあろう。しかし、「話の話」は「詩的な映画」ではなく、映像による完全な「詩」であり、詩の原理にもとづいて作られている映画である。和歌や俳句に許されることがこのような映画詩に許されぬはずはないとおもう。ノルシュテインは一部の芸術アニメーションファンだけのために三年もかけてこの「話の話」を作ったのではない。自分と万人のために作りあげたのだ。 和歌や俳句の「鑑賞」といえば、まず解釈をくわえながら散文的に内容を敷衍することとされている。しかしそのとき短歌のもつ「ことば」の味わい、音楽性、簡潔性はすべて失われる。意味を理解したことがすなわちその詩歌をわかった、感じたということにならないのはいうまでもない。敷衍され解釈された内容を踏まえつつ、あるいはそれを批判的に摂取したうえで、それらを原詩に即して感覚的に頭や心のなかで再構築することは完全に読者にゆだねられているのである。要するに原詩をそのようにしてでも何度もくりかえし味わうことが和歌俳句の場合当然とされている。ぼくは自分の経験から、この「話の話」の場合も詩歌とまったく同じようにくりかえし味わうことがどうしても必要だと考える。たしかに映画は詩集とちがい何時(いつ)でもみられるわけではないし、そのたびに出向きお金を払わなければならない。しかし「話の話」はそれに価する作品である。1980年の世界各地のアニメーションフェスティヴァルで大賞を総ざらいしたこの「話の話」の出現がひとつの事件であるとするならば、それは「詩」としての構造をはっきりもち、詩歌と同じようにくりかえし鑑賞することがはじめから前提され、そのたびに印象の深まりを体験すること自体を要求している作品、そういうものがアニメーションの世界に出現したという意味においてではないだろうか。 (家をたずねていくのに、すぐ人に道をきく人もいれば、地図を片手に行きつもどりつやっとたどりつくのが好きな人もいる。どちらかといえばぼくもそのくちである。せっかくノルシュテインに会いながら質問らしい質問はなにもできないできてしまった。もちろん「話の話」について彼が話してくれたことはこの解説のなかにすべて引用するつもりであるが、あとはどのみちぼくの独断と偏見にもとづく敷衍作業にすぎない。本当は解説を読むよりまずくりかえし「話の話」をみることをこそすすめたいので、このページで本を閉じて作品にふたたびあたってみようとおもわれる人のために、ひとつだけ重要なことをしらせておきたい。 ぼくたち日本の観客にとって「話の話」がわかりにくいひとつの理由がある。それは都市の庶民の住居が昔から基本的に共同住宅であるということだ。パリやローマの堂々たる石造りの建物もその多くがアパートであり、「話の話」の重要な舞台であるロシアの古い木造の建物も、なかで二十世帯も生活しているアパートなのである。これを知っていないと、長い長いテーブルクロスや、その下に並べられた雑多な机や、前庭の自動車の数がなんのことかわからなくなる。) | |
註1)「霧につつまれたハリネズミ」は1975年の作品。ノルシュテインにとっては第三作目にあたる。スタッフは撮影がA・ジェコフスキー(この人がノルシュテインとずっと組んでいる)に変わるだけで、「話の話」とほぼ同じである。全ソ映画祭動画部門一位になるなど、これも高く評価された。 (C)ISAO TAKAHATA この文章は高畑勲監督の「解説」よりその一部である「はじめに」から転載しました。 | |
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