メインコンテンツ | メニュー | リンクメニュー

ページ内容

2006年3月14日

第五十三回 ロゴスの高畑、エロスの宮崎

いよいよ明日はカッティングです。
カッティングは3回に分けて行われ、
明日は全体の約3分の1を行う予定です。

カッティングを迎えるにあたって、
ここ2週間ほど、現場にすごい巻きが入りました。
特に動画、仕上げ、撮影のがんばりはものすごいものがありました。

カッティングとはつまり編集を意味しますが、
アニメーションのカッティングとは、
主にカットとカットのつながりを見る作業です。
実写のように、フィルムをばっさばっさと切って編集する
というわけではありません。
なんといっても、すべて1枚1枚手で描かれたものなので、
単なる素材というには、あまりに手間暇をかけられています。

先日、編集をお願いしている瀬山編集室の瀬山武司さんに
教えていただいてなるほどと思ったのは、
見た目の感覚的なスムーズさと
論理的な整合性は別であるということ。

たとえば歩いているシーン。
左足が上がった状態を側面から撮っていた画面が、
次の瞬間、正面から撮っている画面に切り替わるとします。
理屈でいえば、切り替わった直後も左足はまだ宙にあるはずですが、
意図的に左足が地面に付いた状態から始まるように編集したりします。
そうすることで、感覚的にはスムーズに動いているように見えるのです。

瀬山さんは、
ここに高畑勲監督と宮崎駿監督の違いがあると言います。

宮崎監督が映像的な快感を最大限に引き出す傾向があるのに対して、
高畑監督はあえて論理を重視し、
爽快感を与えて物語世界に没入させるよりも、
それを抑制して、観客が立ち止まって考える余裕をつくろうとするのです。

エロスを信じる宮崎駿とロゴスを信じる高畑勲。

もちろんその特徴は編集においてだけではなく、
カメラワークにも現れています。
宮崎作品では、カメラは主人公にくっついて
観客も一緒に世界に入ってように演出する傾向があるのに対して、
高畑監督のカメラは、一歩引いた視線で世界をとらえています。

ともかく、
一見小さな作業に見えるアニメーションのカッティングも、
実は、映画にロゴスとエロスを吹き込む重要な作業だったのです。