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2005年12月19日
第四回 理解が実感に変わった
なぜ、かつては共感した第一巻の少年ゲドのがむしゃらな生き方が、
20年後あらためて読んだとき、鼻についたのか、
理由を考えてみました。
抽象的なものはいくつも思いつきます。
かつてよりも社会が格段に成熟し(決してよい意味でではなく)、
「がんばれば自分が変わるかもしれない」
「世界を変えられるかもしれない」という考え方に、
リアリティーを感じられなくなった
であるとか、
もっと大上段に振りかぶれば、
9.11同時多発テロによって、
超大国アメリカでさえも力では何も支配できないと知った人々は、
善悪に関係なく「力」そのものに疑問の目を向ける
ニヒリズムに陥ってしまった
であるとか。
いろいろ理屈を考えてみたけど、
どれも当てはまりません。
たぶん、自分が年齢を重ねることで、
この天地の間にあるものはすべておれのものだ。
おれが支配し、統率できるものなんだ。
おれは今、世界の中枢に位置しているのだ
という、自分のことしか考えない、周りが目に入らない、
ゲドの態度が気になるようになったのでしょう。
そして逆に、
力を持ち、知識が広がっていけばいくほど、
その人間の道は狭くなり、
やがては何ひとつ選べるものはなくなって、
ただ、しなければならないことをするようになるものなのだ
という第二回で引用した呼び出しの長の言葉を、
頭で理解するのではなく、
実感としてわかるようになったのです。
追記
今日は本当に寒い日でした。
それまで視界をさえぎっていたケヤキの葉もすっかり落ちて、
スタジオの屋上からは、
夕焼けに背後から照らされながら、
遠く富士山の神々しい姿を望むことができました。