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2005年12月15日

第二回 高校生のときは第一巻が好きだった

 前回は、映画化の企画を考えるにあたって『ゲド戦記』を読み直してみると、魔法についての新鮮な発見があったという話を書きました。

 世の中の理を知ること。物が持っている真実の姿を知ること。そして真の名を知ること。それが『ゲド戦記』の舞台であるアースシーにおける魔法なのです。それは、呪文を覚えさえすれば手から光線が出て敵を倒したり、化け物に変身できたりするものではありません。

 しかし、『ゲド戦記』でも魔法そのものが正義というわけではありません。魔法は言葉を大本とした知の体系なので、その力を使って善い行いもできるし、悪用することもできます。

 私は高校生のとき、当時出版されていた一、二、三巻のうち、第一巻がいちばん好きでした。

 第一巻のゲドは、野心があって雄々しい少年として描かれています。魔法の力を才能と努力で身につけることによって地位や名誉を手に入れ、このつまらない日常から脱出したいという強烈な前向きさを持っていて、それを妨げる者だとかライバルに対して強い対抗心を抱いています。

 当時の私は、このゲドという少年に、簡単に自分自身を重ねることができました。それは好き嫌いというよりも、私自身がゲドであるかのような気がしたのです。高校生という私の年齢と1980年代前半という時代が、そういうリアリティを生んだのでしょう。

 しかしゲドは、その野心ゆえに失敗します。

 第一巻で、呼び出しの長が、床に伏せるゲドにこう諭します。

そなた、子どもの頃は、不可能なことなどないと思っておったろうな。わしも昔はそうだった。わしらはみんなそう思っておった。だが、事実は違う。力を持ち、知識が広がっていけばいくほど、その人間の道は狭くなり、やがては何ひとつ選べるものはなくなって、ただ、しなければならないことをするようになるものなのだ

 魔法の大本である知識は、たくさん持てばそれだけ大きな力を使ってよいものではなくて、同時に、「してはいけないこと」と「しなければならないこと」を知らなければ、手痛いしっぺ返しに遭ってしまいます。大きな力を持てば持つほど、その使い道は限られてくるのです。いえ、自ら限らなければならなくなるのです。

 こうして、物語の中で、ゲドは「均衡」の大切さを知ることになります。それは、自分の中に持っている光と影、心の中の明るい部分と暗い部分のバランスをとるということです。

 当時の私は、これを「お説教」ではなく、「大切な教え」として受け取ることができました。ゲドの姿を通して、自分自身の「影」を見つめることができたのです。

 しかし、20年たった現在、第一巻をあらためて読んだときの印象は、当時とはまったく違うものでした。