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週一回更新コラム「ゲド戦記の作り方」

2006年4月13日

番外編 「韓国・アニメーションスタジオ訪問記」 ─後編─

 
 第2回(中編)はこちら。


 DRムービー(以下DR)に滞在して、ひとつ気になった事がある。

 CEO(最高経営責任者)であるジョン社長が、常に現場を歩き回り、一向にCEO室へと戻る気配がない。スタッフ一人ひとりが、ジョンさんの顔を見ると、廊下で、エレベーターで、実に親しげに言葉を交わし合う。社長でありながら、まるで制作進行スタッフと同じように、丸一日を現場で過ごしているようなのである。

 DR訪問の目的は無論、前回お伝えした作画説明会にあったが、個人的には、このジョンさんという人を、もっと知りたいという動機があった。
 ジョンさんには、日本で何度かお目にかかる機会を持ったが、400人の社員を束ねる彼は、今、スタジオでどのような作品が動いていて、誰がどの仕事を受け持っており、カット数、作画枚数、進捗状況から映像の内容に至るまで、全てを把握しているようだった。

 僕は、「ゲド戦記」に入るまで、鈴木プロデューサーの補佐として、主に宣伝関連の仕事に従事していた。今回、制作として本格的に現場に入るに当たり、鈴木プロデューサーにこう言われていた。


 「映画はまず、現場ありき。現場を知り、スタッフを知り、画を知らなければならない」


 鈴木プロデューサーは、多忙の中でも、常に制作の進行状況をチェックし、時間を見つけてはスタジオ内を歩き回って現場の隅々まで目を配る。完成映像をチェックするラッシュ上映にも、必ず参加する。
 でも最近は、制作以外の仕事に追われ、以前のように現場に張り付く事が難しくなった。僕がジョンさんの話をする度に、羨ましそうな表情を浮かべるのだった。

 DRを訪れて、僕は再び、鈴木プロデューサーの言葉を思い出していた。ジョンさんのDRでの仕事に、アニメーションの仕事の本質を知る、大きなヒントが隠されているのではないか──と。


 滞在二日目。
 ジョンさんに無理をお願いして、一時間半、取材の時間を頂いた。

 コラム「ゲド戦記の作り方」番外編「韓国・アニメーションスタジオ訪問記」の最終回は、ジョンさんへの取材を通して、アニメーションの、制作の仕事について書いてみたい。ジョンさんのお話は、アニメーションの現場に関わる多くの制作スタッフにとどまらず、多くの仕事人にとっても、興味深い内容になると思う。


 おそらく、取材を申し込む事がなければ、足を踏み入れる事はなかっただろうジョンさんの執務室は、30平米ほどの長方形の部屋で、中央にはジョンさんの執務机と会議用のテーブル。壁には、日本や韓国のアニメーション作品のポスターが貼られ、これまでDRが手がけてきた作品のDVDやビデオテープが並んでいる。窓辺では、鉢植えの観葉植物が揺れていて、開け放たれた窓の向こうでは、九老のオフィスビル群と、ソウル繁華街のネオンが光芒を放っている。


 ジョンさんは、1961年生まれの、45歳。

 故・伊丹十三監督似(だと思う)の貌は、常に微笑みを絶やさず、ニッコリ笑うと目が見えなくなる程だが、時折、鋭い目で相手の目を見据えることがある。日本語を完璧に解し、反応も、こちらがたじろぐほど速い。その言葉には、豊かな抑揚があり、確かな実体があり、時に鋭い痛烈がある。
 
 
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『DRムービーCEO ジョン(JEONG, Jeong-Gyn)さん』


●韓国のアニメーションの歴史

  
 資料(後述)をあたると、韓国のアニメーションの歴史の発端は、約50年前にさかのぼる。

 50年代には、テレビコマーシャル、60年代からはテレビでアニメーションの放映が始まった。当時のアニメーションは、海外から輸入されたもので占められており、日本や、アメリカを中心とした欧米の作品が中心だったようだ。
 1950年代後半から1960年代の日本は、『白蛇伝』(1958年)を筆頭に、『安寿と厨子王丸』(1961年)や、高畑勲・宮崎駿らがてがけた『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)など、東映動画や、手塚治虫氏が設立した虫プロダクションが、長編アニメーションを送り出していた頃だ。

 1970年代になると、日本やアメリカから仕事を受注し、国内でもアニメーションの制作が本格的に始まるようになる。80年代にかけてその質・量は上がってゆき、アニメーションの生産量は、世界第3位にまで到達する。

 その後、韓国の経済が豊かになってきた事により、80年代、90年代と賃金が高騰し、やがて日本やアメリカからの仕事は、フィリピンやベトナム、最近では中国に流れ、韓国での制作量は、次第に減ってゆく。


 韓国・国内で、本格的にオリジナルアニメーションの制作が始まったのは、ソウルオリンピックの開催された、1988年以降。オリンピック開催を契機に、国内の放送局向けの、国産アニメーションが制作されるようになった。以降、韓国の国営放送局KBSが、主に子供向けのアニメーションの制作を続けてきたが、産業として成熟するには至らなかった。

 韓国のアニメーションが産業として育ち始めたのは、1995年以降。この年は、ディズニーの「ライオンキング」やスピルバーグ監督の「ジュラシックパーク」という海外のアニメーション・3D映画が大ヒットし、一本の映画が、製造業に匹敵する利益を生む産業になりうるという事が証明された年だった。
 以降、アニメーションを含む映像産業には、韓国の主力産業として、大きなスポットライトが当てられている。韓国のアニメーション業界は、これから更に面白くなる筈だ。
 
 
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『ジョンさんの執務室』
 
 
 ジョンさんが物心ついたときから、テレビではアニメーションが放映されていたが、当時は、その作品が、何処で、誰の手によって作られているのかを知る術はなかったそうだ。テレビで放映されていたアニメーションの多くが、実は日本やアメリカで作られているという事を知ったのは、ずっと後のことだったと言う。

 ジョンさんがアニメーションに興味を抱いたのは、学生時代。友人のお姉さんが、アニメーションの会社をやっていた事がきっかけだった。画を描く事が好きだったジョンさんは、アニメーションを作る現場が身近にある事を知り、動画スタッフとしてアニメーション業界に入り、日本やアメリカの作品を手がける事になる。

 その後、制作となり、アニメーションの制作工程の全てに関わった。ジョンさんの口から日本のアニメーション『ふたり鷹』(1984年~1985年、フジテレビ系で放映)等のタイトルが聞かれたので、今から22年ほど前の事だろう。

 当時はまだ、コピー機が高価で、お店に行って高いコピー代を支払わなければならなかった。
 ジョンさんは、コピー代を節約する為に、線撮り(画が間に合わないカットを、音響制作用に別撮影(コピー)すること)素材や、タイムシートを、上から自分でトレースして作っていた。そのおかげで、作画内容やシートの読み方が自然に身についた、と笑う。

 電話代も高く、今のようにメールもない。ジョンさんにとって日本は、近くて遠い国だった。

 通信費を節約する為には、作画の内容一つひとつを、しっかりと理解しなければならない。ジョンさんは動画や制作以外にも、動画チェック・演出・ファイナルチェッカー(欧米の作品で、完成した映像を最終的にチェックするスタッフ)などを兼任し、アニメーションに関わる、ありとあらゆる仕事を経験することによって、海の向こうのスタッフの、演出意図や作画意図を、正確に把握する訓練を重ねた。

 この、若き日の経験が、スピードだけではなく、その上がりの内容にも定評を得ている、現在のDRの仕事につながっているのだろう。DRは韓国でも数少ない「グロス請け(作品の制作を丸ごと請けおうこと)」で仕事を受注できる会社なのだ。


●DRムービー誕生


 ジョンさんが、それまで勤めていたスタジオから独立し、DRムービーを設立したのは、ソウルオリンピックの翌年、1989年のことである。
 DRとは、韓国語で「燃え上がる炎」という意味だ。

 ジョンさんは、それまでの人脈を頼りに、まだ韓国に仕事を出していない日本のアニメーションスタジオをリストアップし、単身、日本へ飛んだ。その時、ジョンさんが出会ったのが、日本の大手アニメーションスタジオのひとつであり、クオリティの高いアニメーションを現在も作り続けている、「マッドハウス」のスタッフだった。(この方は、鈴木プロデューサーの、古くからの知人でもある)


 日本の作品をやりたい──。


 ジョンさんは知っている日本語の単語を駆使して、熱く語ったという。その熱意を受け、マッドハウスのスタッフは、まだ無名だった若きジョンさんに、仕事を任せてくれた。以降、現在に至るまで、DRはマッドハウスの仕事を第一に受け、マッドハウスも日本のスタッフを韓国に派遣し、強力な関係を築いてきた。
  
 
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『作画説明会でのジョンさん。自ら、ジブリスタッフの説明を翻訳して下さった』
 
 
●緑色のカット袋


 ジョンさんがマッドハウスの仕事をやりたいと考えたのは、ひとつの野心があったからだった。

 当時のマッドハウスのカット袋(作画した紙を管理・運搬する為の封筒状の袋)は緑色で、韓国のスタジオでは「緑色のカット袋は開けないで断る」というまことしやかな逸話があった。マッドハウスの作品はレベルが高く、高度なスキルが要求される一方、カット数・枚数をこなす事が難しい。お金をかせぐ為には、もっと簡単な仕事を受けた方が、割にあったからである。

 しかしジョンさんは、逆に考えた。


 もし、そういう難しい仕事を受けられる事が出来るようになれば、何でも出来るじゃあないか──。


 ジョンさんは若気の至りだと笑うが、その成果は、次第に現れ始めた。マッドハウスの仕事を受け続けているうちに、DRは「質を守る会社だ」という評判が広まり、レベルの高い作品の仕事が、良い条件で、DRに集まるようになってきたのである。ジョンさんは、現在もその信念を守り続け、現在では、動画・仕上の仕事は、DRに出せば間違いがない、という評価を得るまでになっている。


 設立当時のDRは、スタッフ総勢で20人。まさに、寝食を共にしている、という仲だった。

 湿っぽいビルの地下で、暑い時期になると動画用紙が湿って波打ってしまうほど。仕上の絵の具を乾かすためにストーブを炊き、皆、汗だくで仕事をしていた。同じ釜の飯を食らい、共に寝泊まりをするうちに、ジョンさんは、スタッフ一人ひとりが、どのカットを担当し、枚数は何枚持っているか、個々人の私生活に至るまで、全てを把握するようになる。


 今回は大変なカットをやったから、次は楽なのをやらせてやろう──。
 あいつは生活が大変だから、良い条件の仕事を回してやろう──。


 今のように会社が大きくなると、流石に一人ひとりにまで目は届かなくなってしまったというが、当時はとてもやりやすかったそうだ。
 ジョンさんが心がけたのは、給料日に必ずお金を支払うこと。会社としては当たり前の事だが、当時の業界では、給料の支払いが遅れる事は日常茶飯事だった。ジョンさんは、過去に勤めた会社で抱いた疑問を思い返し、必ず、決まった日に給料が振り込まれるように心がけた。それによって、「DRの仕事をやれば、どんな事があっても決まった日にお金が振り込まれる」という、国内の評判も高まってゆく。


●韓国内のアニメーション業界事情


 韓国には現在、テレビの放映時間帯の1%の枠で、純韓国産のアニメーションを放映しなければならないという法律がある。前述の通り、国営放送をはじめ、各チャンネルが、オリジナルアニメーションの枠を設け、国は、更にオリジナルアニメーションの制作本数を増やそうと、アニメーションの産業化に意欲的だ。

 ジョンさんが幼い頃は、かつての日本と同様、漫画やアニメーションは、おおっぴらに観てはいけないもの、隠れて、こっそり観るものだったそうだ。最近はその壁も崩れ、雑誌やテレビに限らず、インターネットやゲームなど、様々なメディアで漫画やアニメーションが取り上げられ、制作現場で働きたい、という若者も増加の一途をたどっている。


 今、韓国には、アニメーション制作者協会に加入しているスタジオが約160ある。協会に登録されていない小規模のスタジオを含めると、約200。そのうち、3Dアニメーション専門の制作スタジオが約30含まれるので、セルアニメーションを制作しているアニメーションスタジオは、170箇所前後、という事になる。欧米の作品を年間200本以上回している、DRよりも大きな会社はいくつもあるそうだ。

 現在、専門学校や大学の学部を合わせると、アニメーション学科なるものが100以上はあり、今も増殖中。これらの学校を出た学生が、アニメーション業界に全て入ってくれば、業界全体の人口は増える筈だが、おそらく減ってきていると思う──とジョンさんは言う。

 過酷な労働条件であるという事は勿論だが、本質的な問題として、生徒に教えやすい、3D・エフェクトやノンリニア編集といった、パソコンを使ったデジタル関連のカリキュラムが中心で、所謂「絵心」(実際に描く、描かないに限らず)を学ぶ機会がその過程に含まれていない。
 そういった学校で学んだ生徒が、実際に業界に入ってきても、セルアニメーションの現場では、手で描いた画が中心である。入社してもすぐ、辞めてしまうというのが現状だそうだ。


 これは、現在の日本の状況にも言える事ではないだろうか。


 昨今、本邦においてもアニメーションが産業としてもてはやされ、専門学校、大学にも次々とアニメーション学科が作られているが、監督・作画スタッフや制作・プロデューサーを育成する事をうたった学科の中で、絵心について重点を置いているところがどれだけあるのだろうか。いくらパソコンの使い方や、ビジネスの仕組みをお勉強しても、映像を作るスタッフは絵心を、映像を世に出すスタッフは、画を見る力を養わなければならない──と思う。


 閑話休題(それはさておき)。


 今日、韓国の実写映画やテレビドラマは活況を呈し、日本でも「韓流ブーム」が冷めやらない。
 ジョンさん曰く、ほんの10年以上前には、実写映画も到底、今のレベルには達していなかったそうだ。韓国の実写映画が変わったきっかけは、国が資金を出して作った映画アカデミーという学校から、優秀なシナリオライターや監督・スタッフが生まれ始めた事が大きい、と言う。現在、韓国で活躍している実写の監督・演出・シナリオライターの殆どが、映画アカデミーの出身だそうだ。

 良い作品が生まれ、興行的に成功し、再び投資され、また作品が作られる。この、幸福な好循環が実写の世界では起こったが、まだ、アニメーションの世界では生まれていない。

 その理由のひとつに、ジョンさんは、韓国のアニメーション業界が、長くOEM(他社ブランドの製品を製造すること)を主に手がけており、本国の中から、企画・脚本・演出まで関わる環境が揃っていない事をあげる。何かを作りたい、という想いをもったスタッフは何人もいるが、彼らが作った作品が興行的な成功に結びつく、という好循環に、未だ至っていない。実写が活況を呈す程、アニメーションに優秀な人材が入ってくる事も少なくなった。


 斯様な状況だが、ジョンさんは、OEMという仕事の形態について、悲観的であるという訳では決してない。スタッフの力量が上がり、単価に応じて収入が入る訳だから、DRにとってOEMの仕事は欠かせない。
 ジョンさんは、OEMで会社の経営を軌道に乗せながら、将来、韓国内で優秀な監督・演出スタッフが育つように、投資を惜しまない。最近は、演出からグロス受けする作品も増えてきたが、日本から支払われる演出料に、DRが更に上乗せをして、賃金を支払っているそうだ。優秀な演出が育たないと、質の高い作品は作れない。それらの補填は、OEM作品の収入で埋めているそうだ。

 アニメーションが、産業として育ち始めた5~6年前には、アニメーション専門のアカデミーも設立され、そろそろ、そこで育った人材がアニメーション業界に入ってくる頃。ジョンさんは、このアカデミーの審査員も行っており、その中で目を付けたひとりは、卒業するまで二年間待ち、卒業式の当日に待ちかまえてDRに連れてきたそうだ。彼は劇場作品の監督として成長し、今後は、彼を中心としたオリジナル作品も、作ってゆく予定だという。


 韓国のアニメーションは、映像を作るという点では、かなりのレベルに達し、今後も向上してゆくだろう。しかし、企画段階──企画・シナリオ・絵コンテ・演出等の、作品としての質を高めるためのスタッフは、まだまだ成熟しているとは言い難い、とジョンさんは言う。

 これは、日本においても言えることだと思う。いくら国が、アニメーションを産業としてもてはやし、映像を作り込むソフトウェアやシステムが成熟しても、映画を企画し、鑑賞に堪えうる作品に仕上げるスタッフが育たなければ、あっという間に頭打ちになってしまう。

 隣の国で起こっていることは、合わせ鏡のように日本でも起こっている。そんな事を考えながら、ジョンさんへのインタビューを終えた。


●ジョンさんから学んだこと


 インタビューを終え、夕食に向かう道すがら、ジョンさんのDRでの一日について訪ねた。

 驚くべき事に、経営者であるジョンさんは、出社すると、現在DRで動いている全ての作品の進行状況と、各スタッフの手持ちカットの完成予定日を整理し、自ら現場に出向いて、スタッフ一人ひとりに声をかけ、進行状況をチェックしているのだった。自分の息子くらいの制作進行スタッフと共に仕事を分け合い、彼らが忙しいときには、自らカットの回収にも出かけるという。

 ジョンさんの一日は、現場で始まり、現場で終わる。


 経営的な事は誰がやっているのか? と問うと、経営は全て、韓国三星(サムソン)電子から引き抜いたスタッフと、もうひとかたの二名に任せ、自身は今後も、現場に張り付いてゆくつもりなのだ──と笑った。

 インタビュー後、アメリカのテレビシリーズの、演出から完成までをグロス請けした作品の完成映像を見せて貰ったが、この作品を演出したスタッフは、ジョンさんが現場を歩き回り、動画の頃から「面白い画を描くな」と目を付け、抜擢したスタッフなのだという。


 ジョンさんのモットーは、現場第一。


 その笑顔には、「現場から離れてしまったら、見える筈のものが見えなくなりますよ」という、自負心がみなぎっているようだった。(了)
 
 
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『執務室には、2001年夏に宮崎駿監督が訪れた時の写真が飾ってある』
 
 
 全3回にわたってお送りしてきた、コラム「ゲド戦記の作り方」番外編「韓国・アニメーションスタジオ訪問記」は、今日で終わりです。

 この場を借りて、インタビューに答えてくださったDRムービーCEOのジョンさん、お忙しい中にも関わらず、原稿をチェックし、正確な数字を教えてくださった企画理事のアンさん、制作として窓口に立ってくださっているムンさんに、心より御礼申し上げます。

 尚、本文中の韓国のアニメーションの歴史に関しましては、東京財団のホームページに掲載されておりました、李元馥さんの基調講演の内容を、参考にさせて頂きました。


 来週からはまた、映画「ゲド戦記」がどのようにして作られているのか──その制作過程を紹介してゆきたいと思いますので、引き続きご愛読の程、宜しくお願い申し上げます。
 
 

スタジオジブリ制作部 石井朋彦