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週一回更新コラム「ゲド戦記の作り方」
2006年3月 4日
映画の主人公には2種類しかない ─キャラクター(1)─
全国の劇場で「ゲド戦記」の前売り券が発売になりました。
様々な情報が記された、豪華チラシも配布されています!
『豪華チラシの表面』
さて。
今宵は、僕らの中に、ふたりの自分が存在するという事を書こうと思います。
ひとり目は、ありのままの自分。
ふたり目は、こうありたいと願う、理想の自分。
往々にして僕らは、理想の自分と現実の自分との間を彷徨い、その大いなる隔たりを前に、うなだれ、打ちのめされながら、日々をうっちゃっている訳ですが……映画も然り。映画の主人公もまた、斯様に分類する事が出来るのです。
僕がジブリに入って間もない頃、鈴木プロデューサーと、こんな会話を交わした事がありました。
鈴木「映画の主人公は、極論すると二種類しかいないよ」
僕「そうですかねェ……? もっと色んな種類があるような気がしますけど」
鈴木「スーパーマンと、(「男はつらいよ」の)寅さんの違いはなんだと思う?」
僕「──特別な力を持っているかいないか……ですかね?」
鈴木「そう。映画の主人公は、特別な力をもって、倒すべき敵や、克服すべき障害を乗り越える主人公か、特別な力を持たない、市井の人々の、二種類しかないンだよ」
ナルホド。
確かに、動物や自然物を扱ったドキュメンタリー映画でもない限り、物語の主人公は、特別な人、そうでない人の二つに分けられるナ、と腕を組んだのでした。史実を扱った群像劇でも、歴史の表舞台に立つ、特別な人を主人公にするか、歴史の中に埋もれた庶民たちを主人公に据えるかによって、映画の内容は、大きく違ってくるはずです。
更に、鈴木プロデューサーは、こう続けました。
「高畑勲と、宮崎駿の映画の主人公も、ふたつに分けられるでしょ」
○高畑勲作品
「火垂るの墓」の清太 → 戦時下の14歳の少年
「おもひでぽろぽろ」のたえこ → 二十七歳のOL
「となりの山田くん」一家 → ごく普通の中流家庭
○宮崎駿作品
「風の谷のナウシカ」 → 世界の運命を背負った少女
「耳をすませば」 → 自分の才能を信じて小説家を目指す少女
「もののけ姫」 → 獣に育てられた少女
ナルホドナルホド。
高畑勲監督は、一貫して庶民を描き、宮崎駿監督は、特別な能力を持った主人公を、描き続けてきたのでした。
曰く、映画の観方には、二種類ある。ひとつ目は、特別な能力をもった主人公と自分とを重ね合わせて、物語を「主観的」に楽しむ映画。ふたつ目は、ごく普通の主人公に、「しょうがないなァ」あるいは「そうだよなァ」と「共感」しながら観る映画。
どちらが良い、悪いではなく、僕らには、いずれもが必要です。何故なら、冒頭に記した通り、映画を観る僕らの中にも、ふたりの自分が存在するからです。ヒーローになりきって血湧き肉躍りたい気分の時もあれば、今自分の抱えている問題に対する答えを見つける為に、自らと同じ境遇の主人公を描いた映画を選ぶこともあるでしょう。
この会話が交わされたのは、「千と千尋の神隠し」の制作が始まったばかりの頃。
前述の、高畑・宮崎両作品の主人公分析をしながら、ひとつの疑問が浮かびました。それまで宮崎駿監督が描いてきた主人公像と違い、千尋は、ごく普通の女の子なのでは? と思ったのです。
鈴木プロデューサーの答えはこうでした。
現代は、単純に特別な能力を持っただけの主人公だけでは説得力がない。現代を生きる人の心情に沿った主人公でなければ、お客さんはそのキャラクターに感情移入し、共感する事は出来ない。
千尋は、現代的な両親のもとで、「ぶちゃむくれて」育った女の子。「千と千尋の神隠し」は、現代ッ子である千尋が、湯屋で働くという経験を通して生きる力を呼び醒まし、最終的にカオナシを救い、あるべき場所に戻してやるという物語です。
はじめは普通の女の子でも、ある環境に放り込まれ、貴重な経験を得る事が出来れば、少女は特別な存在になりうる──という、宮崎駿監督の想いが、それまで描いてきた主人公像と違う、千尋という少女を生み出したのです。
このエピソードは、映画を作る際に、主人公像を大きくふたつに分類した後、もうひとつ考えなければいけない事がある、という事を示しています。
それは、主人公の置かれた状況と、現代との関わりを考える事。
テーマと同様、時代に応じて、主人公像も変わってゆく。例えば、ヒーロー像はどうでしょう。よく言われる事ですが、冷戦の終結、経済のグローバル化、民族主義の台頭から9.11に端を発した対テロ戦争に至る世界情勢の中で、現代は、勧善懲悪型のヒーロー像が設定しにくい時代です。
そんな中、先に公開された、サム・ライミ監督の「スパイダーマン」シリーズは、とある事件によって特別な能力を獲得しながら、自分の仕事や、恋人との関係の中で葛藤するという現代性=新鮮さを、古典的ヒーロー映画に持ち込んだ、好例だと思います。
物語の主人公が、現代を代表しているか。逆に、現代に存在しない、求めるべき理想像を描いているかどうかを見極める。時代を代表しているとすれば、それがお客さんの共感を呼ぶか。お客さんが、自分を投影して物語に没頭する事が出来るかを考える。それが、キャラクターを設定する上で、とても大事な事なのだと、「ゲド戦記」を作りながら、僕らは学んでいます。
それでは、「ゲド戦記」で、宮崎吾朗監督が主人公に据えた、王子アレンとは何者か。
王子というくらいですから、市井の人ではありません。一方で、勇気と希望溢れる、元気いっぱいの少年ではないだろうことを、予告編の映像をご覧になった方は、感じられたのではないでしょうか。
ここで、多くを語る事は止めておきましょう。
予告編のボディコピーに記された、王子アレンに関する三行の言葉。
災いの源を探る旅に出た大賢人ゲドは、
心に闇を持つ少年、エンラッドの王子アレンに出会う。
少年は、影に追われていた。
これが今回、吾朗監督が、主人公アレンに込めた現代性のヒントです。
『全国の劇場で配布されているチラシの裏面』
英雄のいない時代は不幸だが、英雄を必要とする時代はもっと不幸だ。
次回は、吾朗監督以下、メインスタッフが、実際にキャラクターを紙に描き出した時のエピソードを、紹介したいと思います。